留学生活開始から三ヶ月が経とうとしている。四学期制の浙江大学では秋学期から冬学期に移行し、杭州も冬らしくなってきている。今月のテーマについて色々と考えてみたが、日本の流行すら疎い筆者が中国の流行を語るのは荷が重い。よって自身の興味に引きつけた内容を書いてみたいと思う。
筆者は中国史を専攻し、南宋のことについて研究している。留学先に浙江大学を希望したのも杭州がかつて南宋の都であったことが理由の一つである。今も杭州には南宋時代の痕跡が残っている。その中でも筆者が気になっていた場所が岳王廟である。南宋初期、女真族の王朝である金との戦争で活躍した武将、岳飛を祀っている廟であり、西湖の湖畔にある。金により北宋が滅ぼされた後、中国南方で成立した南宋は金との関係で揺れ動くことになった。岳飛は主戦論を唱え、最終的には謀反の疑いをかけられ獄死することになる。この岳飛の死を主導したと言われるのが、当時の宰相であり、和平を主導していた秦檜である。中国において「民族英雄」と呼ばれ尊崇される岳飛を死に至らしめたとされる彼の評判は頗る悪く、先ほど触れた岳王廟の中には岳飛の死に関わったと言われる人物たちと共に跪かされた格好の像が作られ、かつては訪れた人々に唾を吐きかけられていたというのは有名な話である。筆者が今回実際に岳王廟を訪れた際には、太鼓に「暴打秦檜」と書かれているのを発見した。見つけた時は思わず驚いたものである。
また、グルメに関するエピソードからも秦檜の評判を垣間見ることができる。中国の朝食でよく食べられる「油条」は小麦粉を練って揚げた揚げパンのような食べ物であるが、一説によれば岳飛の死を聞いた店の店主が小麦粉を練ったものを秦檜に見立てて揚げたものが発祥だという。また、今回留学に来てから、「葱包烩」というグルメを知った。油条と小葱と調味料を生地で包み鉄板で焼いたもので、意味合いとしては油条と似たようなもののようだ。秦檜から罪を問われないように、檜の字を火へんに変えてこの名前になったという。
長々とつかみどころのない話をしてしまった。筆者は大学の卒業論文と修士論文で秦檜に関するテーマを選択しており、彼のような悪役扱いされる人物の歴史がどのように形作られるのかという点に興味を持っている。研究に役立つかどうかは分からないが、興味深い発見であったので書いてみた次第である。もっとも、大学院生の身としてはこのような話は出典をしっかり調べてから記すべきだが、些か時間が足らなかった。時間の管理ができず恥じ入るばかりだ。
葱包烩を売っていた店の説明書きと、実物の画像。