「毛沢東という事実」森下雅洋(北京語言大学)

最近、自分の中国に対する関心事は近現代中国関連に絞られてきている感覚がある。12月次のレポートからその傾向は顕著だ。10月24日二十大の人民日報のマイニングから始まり、12月のコロナ政策の動静から上海滞在中から現在まで、このレポートを通し自分の対中思考や理解を整理するにあたって、一番の頭に浮かんでくるテーマが近現代中国の成り立ちから現代に至るまでの中国としての在り方や考え方に対する自己思案、それに対する新たな自問自答である。以下、自分の頭では非常に言語化しづらい内容をそのまま書き連ねているので、乱文ご容赦いただきたい。

まず、大前提として自分は中国の近現代の歴史、成立、思想、偉人等に一方的な拒否感を抱くわけではないし、ましてや中国の考えを強烈に崇拝するわけでもない。

毛沢東という人物に対する、考え、認識、解釈、意見を述べるのは日中双方、ましてや日対日、中対中でもとてもリスクがあり、着地点が見つかりにくくなる。(毛沢東に限らず、日本人の政治家、著名人に関してもそうだが)二国間の歴史的解釈、教育方法、国民感情、素養、文化等、様々な方面で相違性があり、必ずしも歴史的評価が確定するわけではないのはもちろんの事だ。ただ事実として、中国共産党は1981年第11期中央委員会第六全体会議にて「功績7割、誤り3割」と中国的な観点で彼の評価を決定している。

他方、中国人、特に中高年(若者も)は国内外の政治や考え方に興味を持ち発信したがる人が多い。天安門には毛沢東の肖像が掲げられ、中国共産党歴史展覧館でも、中国共産党の賛美及び、彼の功績等が高らかに展示されている。

また、現代中国の様々な方面を理解するにあたって、彼の存在、思想は切っても切れない存在であることも間違いない。なぜなら、中華人民共和国憲法においても「毛沢東思想」は全中国人が習うべきであると明記され、中南海正門でも高らかに賛美が掲げられている。共産党の時折の重要決定や方針に関しても、彼の思想が反映され、根幹となっているのは間違いない。

ここで出てくる違和感がある。その簡易的なバイブルである毛沢東語録は現地では発禁であるし、歴史展覧館を見学すると、評価が決定しているのにも関わらず「誤り3割」の部分の展示が限りなく少ない。歴史的事実として評価の決定がなされているのにも関わらず、庶民間でも彼の3割を語ることに対して憚られる(そもそも口に出すという気すら起きないが)。実際、毛沢東語録に目を通すと、現代日本でも活用できそうな考え方をよく目にするし、ましてや現代中国で実行できているのか?と疑問に思う行も多い。(過去の動向はあるにせよ)なぜ参考にするべきものが発禁となるのか。「実事求是」という言葉や、失敗から学ぶという思想を伝えるものすら散見されるのに、包み隠そうとしてしまうのか。共産圏特有の政治的成り立ちや思想はあろうが、中国一般庶民レベルでも事実としての彼の功績や失敗は客観的に正しく評価し、中対中、中対外に発信するべきであるし、そこで生まれた議論も尊重するべきであるし、正しい知識の上で議論すればこそ、懸念される間違った「暴走」も起きないのではないか。グレーにするからこそ憶測を呼ぶし、ミスリードを生む。逆に言えば、隣国である我々日本人にあっても、彼の名前を出すと思考停止でマイナスと捉える風潮を改め、正しい歴史的事実を直視し、現代中国の根幹には彼の存在があるし、このような思想があるということを認識する必要がある。その上で初めて、お互いの「批評」と「認識の再確認」が始まると考える。

庶民間(に関わらず)において中対日で歴史的、政治的な話題になる時、そもそも彼らの言う情報、感覚、事実、様々なポイント自分らとかみ合わない場面が多い。例えるなら、同じ会議室に入ったのに、机の高さ、椅子の高さ、マイクの音量すら全く違う印象だ。このような矛盾をなくしてこそ、初めて二国間(対世界)の真の相互理解が深まるとそう感じている。

中南海スローガン

中南海前景

天安門

歴史展覧館外観

歴史展覧館

毛沢東着用の人民服の展示展覧館にて