中国語を生涯の友として

2022年9月1日号 /

元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師

神崎 多實子さん

東京都生まれ。幼年期に中国へ渡航、1953年帰国。都立大学附属高校(現桜修館)卒。北京人民画報社、銀行業務などを経て、フリーの通訳者に。通訳歴60年余り、元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師。2022年6月、JACI(日本会議通訳者協会)より特別功労賞授与。編著書に『中国語通訳トレーニング講座 逐次通訳から同時通訳まで』、『中国語通訳実践講座』、神崎勇夫遺稿集『夢のあと』(いずれも東方書店)。

 

中国東北部の長春、当時の満州国の首都・新京で幼年期を過ごした。1945年の敗戦を境に現地の日本人を取り巻く環境は大きく変わり、引き続き「留用」された父の仕事の関係で1948年、吉林の東北大学(後の東北師範大学)へ一時的に移住。晩会(文芸の夕べ)での大学生の歌や踊り、芝居『白毛女』、幕間に響く学生たちの合唱に魅了された。

14歳で長春に戻り、東北師範大学の付属校へ編入学した。そこでの「女性は経済的に自立してこそ真に解放される」という教えは、人生の指針となった。今でも、同級生たちとは微信(WeChat)で頻繁に連絡を取り合う。グループ名は「友誼永存」(友情よ、永久に!)である。

中国語通訳者への道

1953年、多くの中国残留日本人の帰国に伴い帰国。通訳の試験に合格し、高校在学中から中国代表団のサブ通訳を始めた。特に忘れられないのは、1956年に訪日した京劇俳優・梅蘭芳の公演で、中国人スタッフの通訳として共に日本全国をまわった日々だ。舞台裏ではもちろん、移動も食事も常に彼らと共に過ごした。公演最終日には、通訳を含めた裏方全員に舞台化粧を施し衣装をつけ、写真をとってくれた(写真)。「こんな粋なことをされたら好きになるでしょう? 中国が」と宝物の一葉を手に懐かしむ。

京劇の舞台裏で

同じく国交正常化前に訪日した劇作家の曹禺、魯迅の未亡人・許廣平らの人柄にも惚れ込み、通訳の仕事に夢中になった。やがてプロの会議通訳、放送通訳へ。幅広い知識を要求されながら、語学力にも磨きをかけ続けて60年余。今年3月、40年近く続けたNHKの放送通訳を辞めた。

50年を振り返って

1972年9月29日、勤務先の中国語学校の受講生たちとテレビの前で日中国交正常化成立を喜んだ。あれから50年。思えば、1980年代は日中蜜月時代だった。中国は1978年に鄧小平が提唱した改革開放政策への転換もあり、日本から貪欲に学んだ。日本はかつての中国侵略への反省に立ち、中国の経済復興に寄与した。当時、銀行で来日研修生の通訳をしながら、それを実感したものだった。

2010年、中国のGDPが日本を抜いて世界第二位に。2012年の島をめぐる問題、2020年の新型コロナウイルスの日本での初確認でも、中国への風向きは厳しさを増すばかり。ニュース現場では今年3月、中国の赤十字社にあたる中国紅十字会によるウクライナへの人道支援の話題すら、採用の可否を決められなかった。日本が中国侵略をしたこともなかったかのような昨今の日本メディアによる中国報道は「相互誤解」を招く一因で、深く懸念する。今こそ50年前に周恩来総理が呼びかけた「小異を残して大同につく」精神に立ち戻るべきではないか。また周総理のように、心ある交流で周囲をどんどん味方につけられる指導者が必要なのではないか。そう憂えることも多いが、各地で日中交流が続いているのは「一筋の希望の光」と思う。

中国語通訳として第一線で活躍し、後進の育成にも努めたことが高く評価され、今年6月、JACI(日本会議通訳者協会)より特別功労賞を授与された。今は『周恩来の足跡』(四川人民出版社)の翻訳を終え、自叙伝を執筆中だ。生涯の友である中国語を活かし、自らもなすべきことを果たしていきたい。

同時通訳ブースにて