周の君主・武王

2023年3月1日号 /

『封神演義』では神仙達の活躍に目がいきがちであるが、物語のベースは人間世界における商(殷)と周の王朝交代劇であり、商の紂王(ちゅうおう)と周の文王(ぶんのう)の戦いともいえる。そもそも文王は、商王朝の臣下であり、八百諸侯を束ねる四大諸侯の一人、西伯公・姫昌(きしょう)のことで、諡を文王という。姫昌は仁徳に優れた名君として知られ、姫昌が治める西岐(せいき)は、人々はおだやかに暮らし互いを尊重し、物資は豊で治安が良い国であった。

しかし、ある時、紂王の奸臣・費仲(ひちゅう)の計略によって姫昌は七年間にわたり羑里に幽閉される。姫昌を救うため長子の伯邑考(はくゆうこう)が商に赴くが、かえって妲己の計略にかかり命を落とす。後に姫昌は解放され西岐に戻るが、商王朝打倒の道半ばで没する。そして姫昌を継いで周王となったのが次子の姫発(きはつ)である。

物語では、周王である武王が最前線で戦うことはほぼない。だが周軍と闡教の仙道を大いに苦しめた截教の十天君の一人・張天君が操る紅砂陣を破るために、みずから陣に挑むこともあった。しかし張天君の計略にかかり、お供の哪吒(なた)と雷震子(らいしんし)と共に陣中に百日間捕らわれてしまう危機に遭うといった、戦いでの活躍の場面も描かれる。

史実では、周を継いだ姫発は武王(ぶおう)を名乗り、太公望や弟の周公旦(しゅうこうたん)を補佐として置いた。そして一度は兵を挙げ盟津まで攻めるが、時期尚早として引き上げる。その二年後、再び挙兵し、周軍と商軍は牧野で激突した。この戦で紂王は大敗を喫し、商王朝は滅亡する。殷を滅ぼし天子となった武王は、父の姫昌に文王と追号した。また商の遺臣の保護や周の功臣を各地に封じる。例えば太公望・呂尚は斉の国、周公旦は魯国に封じられた。しかし武王は三年あまりで病没してしまう。そこで太公望と周公旦に年少であった子の成王を託した。

周の建国(前1046年頃)から洛邑遷都(前771年)までは西周と呼ばれる。儒教では西周を理想的な時代とし、春秋戦国時代(東周)の儒家は西周を模範とする。周の歴史は、儒教経典や『史記』にも記され、例えば文王・武王・周公旦は『論語』や『孟子』以来何度も言及され尊崇されてきた。このように武王は、商を討取り周を建国した政治面の功績だけでなく、人格にも優れた名君だったのである。

 

 

文◎二ノ宮 聡
1982年生まれ。中国文学研究者。中国の民間信仰研究。関西大学大学院文学研究科中国文学専修博士課程後期課程修了。博士(文学)。北陸大学講師。

絵◎洪 昭侯
1967年、中国北京生まれ。東京学芸大学教育学部絵画課程卒業。(株)中文産業のデザイナーを経て、2014年、東方文化国際合同会社設立。