今月中旬に約一年の留学を終えて帰国し、今やもとの生活にもどりつつある。昨年の今頃は留学に行くことができる期待感がありつつも、外国の地でそれなりの期間を過ごすことへの不安感がやはり強かった。終わってみればそれほど不安になる必要はなかったとは思ったが、致し方ないことかもしれない。さて、このレポートでは、まず今回の留学について振り返り、その上で感想を述べ、テーマである「これからの私」について述べてみたいと思う。
今回の留学では現地の大学院の授業に参加して、筆者の専門分野である宋代史についての学習ができた。日本で所属している研究室の授業とは少し異なる分野の授業を受けることができ、知識や理解が深まったように思う。何よりも参考になったのは歴史学の根本と言える史料の扱い方である。大学院で歴史学を学ぶ中で「史料」に対する態度や扱い方は何度も指導を受けることであり、筆者自身は研究を続ける中で扱えているつもりであった。しかし、現地の学生の史料講読の内容や、それに対する先生の反応などに触れ、筆者の認識がまだまだ甘いものであったと気づかされた。今後研究を続けるにあたり、一層の精進をしていきたい。
もう一つ、今後の研究生活に資すると思われる発見について述べてみたい。前期終了時のレポートにも記したが、杭州は満々と水を称える西湖、大河と言って差し支えのない銭塘江に加え、市内には歴史の中で造られてきた運河が流れる都市である。まさに「江南」のイメージにぴったりな場所である。杭州はその昔、大運河の終着点としての役割を担った都市であった。隋の時代に造られた大運河は歴史の中でルートを変えながら、京杭大運河として現在もその姿を残している。杭州が歴史の中で水運に恵まれた都市であったことは周知のとおりである。南宋の都であった当時は、北方に延びる大運河のルートは断絶していたであろうが、それなりに多くの物資が行き交ったことだろう。筆者が興味をそそられたのは、この水運が当時の行在臨安の人々にもたらした「情報」である。物流拠点であり、かつ当時の実質的国都であった杭州臨安には様々な情報が各地から流入したことだろう。情報伝播のルートは多岐にわたるものであったとはいえ、各地に繋がる水運を通じて伝わる情報は重要なものであったと考えられる。筆者は宋代の言説がどのような過程を辿って宋代の正史『宋史』の編纂に行き着くのかという問題について研究している。南宋の時代を生きた士大夫達が自分達の国の「歴史」や「時事」にまつわる情報を集めようとした時、彼らが得たい情報・知識はその性格を問わず杭州に集まっていた可能性がある。約一年に渡る杭州での生活で「南宋人」の視点を味わえたことは、今後の研究に資する経験だろう。
これまで専門分野・研究に関することについて述べてきたが、その他のことについても得るものがあった。留学と言えば語学力に注目が集まると思われるが、筆者自身中国語の力をつけることができたと思っている。また、中国という国の良さを知ると同時に、今まで暮らしてきた日本の良さも分かったように思う。留学を通して、物事をみる上での「視点」が広がったように思う。これもまた、一つの収穫だろう。
最後にテーマである「これからの私」について、簡単にではあるが述べさせていただく。筆者はこれまでも繰り返し述べてきたように、南宋史を研究する大学院生である。まずは留学の経験も活かしながら、博士論文の執筆・完成を目指したい。その上で研究者として職を得たいと考えている。とはいえ、研究者としての就職は困難なものであり、順調にいくとは限らない。中国留学の経験を活かす道として、中国語の教師や中国人向けの日本語教師なども視野に入れたいと考えている。また、これまでの筆者の経験を活かす方法についても少し考えてみたい。筆者は大学院進学を経験し、さらに今回留学を経験することができた。筆者の経験上、大学院進学や留学について周囲に相談できる人間は多くない。インターネットを利用すればそれなりに情報を集めることはできるだろうが、そのようなところに乗っていない情報や生きた経験談といったものについて、得る手段はそう多くないのではないかと思う。今後、筆者と同じような道に進む学生達にとって有益な情報を共有することが可能かどうか、考えてみたいと思っている。

浙江大学紫金校校区にあるオブジェ。公式グッズの意匠にも使われているが、詳細はわからなかった。

お茶で有名な龍井村の茶畑。一面の茶畑が広がる壮大な光景だった。
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西湖で撮影。(左)集賢亭。街中の広告などにも使われていた。(右)西湖湖岸から望む雷峰塔。