「中国理解を考える」森下雅洋(北京語言大学)

私は中国(外国)理解を考えた時に、「宗教」であると感じた。我々日本人は無宗教国家でありながら、神道仏教等の年中行事を行い、儒教の教えは深く実生活に浸透している。中国では、悠久の文化的蓄積から、毛沢東思想を始め、各時代の首領達やそれに伴う政府の講話、発表は人民の生活は大きく及ぼす。

我々、日中は政治な構造上では相容れない。資本主義、複数政党制、共産主義、一党独裁制は、相対を成す。民族的な統治問題も相容れない。2000年に渡り大和民族の同一民族統治が続いた島国と、紀元前より現代において統治民族が入れ替わり、当代中国という国家が成立したのは70数年前の大陸性国家である。

相容れないのである。我々の多くの国民はイスラム教ではない。様々な宗派、国家構造によるが、彼らの基本的に分かりやすい戒律といえば、豚肉を食べないということである。我々日本人が彼らに豚肉の美味しさ等の価値を説いた所で彼らは相容れない。逆に彼らから豚食の問題点を説かれた所で同じことだ。ただ、理解と線引きはできる。彼らイスラム教徒達はメッカからの距離によって戒律を自己判断で変えていく。豚肉を食する国家に住めば、美味しいから食べる、避けていたらまともに生活できないから・・・等。適応するのだ。

岡田斗司夫氏のユーチューブ動画による見聞によれば、既存宗教と新興宗教の違いは、宗主が死去してから3世代を過ぎる事とのことだ。3世代を過ぎると宗主の教えの濃度が下がり、自体の教義等の解釈が柔軟になり、団体の存続や教義浸透の安定性に重きを置き実社会に即した安定的な運営に舵を切ることになる。3世代を過ぎないまでは、教義にインパクト性やカリスマ性、新鮮性が必要であり、現代の日本及び世界の新興宗教と我々の実社会に起きる摩擦的問題はご存じの通りである。イスラム教、キリスト教、神道、仏教等の既存宗教の安定性はここにある。要するに実社会に適応しているのである。

日本も2000年の歴史がある。対し、新中国は70数年である。毛沢東は1979年に死去、50年も経過していない。1世代目なのである。上記を鑑みれば、まさに当代中国と日本を含めた各世界の摩擦的原因は容易に理解できる。

宗教は神の存在や祝福を願うこと、それに即した行動、思考を伴う行動を励行する事だと私は理解している。また、私はとりわけイスラム教徒達の様々な戒律が、当時の未だ医学的な衛生概念や情報の伝播性や確実性が確立していない時に、身体を清める事は即ち常に身体を清潔に保ち、豚肉等ハラール食品を食する事は、即ち得体のしれない危険な物を口にしない事等の事象を神という絶対的な根拠を背景にし、その国家の道徳的、文明的模範とし、国家統治に充てる為の物であると考えている。

中国政府の諸々の講話、発表、行動、膨張も此れと同じと考えると、腑に落ちる事も多いのではないだろうか。宗教は、ある生活圏、文化圏に深く根ざし、既に社会的模範となっていることは間違いない。我々も一方的に何かの価値観を卑下するということは現代的ではないということは重々承知しているはずである。

旧来は現在よりも、科学技術や情報社会の速度は緩慢だったが、現代は違う。新興国家である中国は自国家のあり方を、模索、発表していくが、人間の頭はそこまで早く適応できない。我々外国人の中国観もそうだ。我々人類はこの自身の頭と情報化社会の矛盾を目の当たりにし、その時代の急流を乗りこなそうとしている大型船「中国」の在り方を、我々が心のどこかで信じ、認めている「宗教」という尊い文化的な側面で理解し、また、長く存続し、彼らが実社会に適応する時まで、しっかり目をむけ続ける事を忘れてはならない。

キメラ建築な北京西駅

偽物市場で有名だった秀水

胡同には昔の北京が見られた

秀水は浄化されていた

天壇公園

天壇公園隣の偽物市場、紅橋市場も浄化されていた