「4月レポート」森下 雅洋(北京語言大学)

中国という赤い太陽が放つ色を感じてほしい。

「赤」は光の三原色であり「赤」以外では生み出すことができない光である。中国を理解するということは「赤」から目をそらすことはできない。直視するべきである。逆説的に言えば「赤」から目を背けるとそれは(現当代)中国ではないのである。私がこの留学を通じて感じた対中理解への結論の一つである。

このレポートを推敲している最中にも様々な思いが葛藤している。一端の学者でもジャーナリストでもない自分が何かを啓蒙し、主張するのは気恥ずかしいが、却って何物でもない留学生である自分がありのままの考えを発信すること自体に意味があると思い、キーボードを叩いている。これから中国留学を志す者の何か力になれば幸いである。

中国に興味を持ち、学び、志す人達は、芸能、恋愛、仕事、言語、食文化等、様々な背景の元、その中国に対する見聞を深めようとしている。私は今回の訪中後、1900年以降中国の政治思想や構造に興味の方向が靡いて行った。理由は、中国理解において、現当代中国の全ての価値観、国家の成り立ち等、様々な背景にはその政治思想や構造が関連していることは紛れもない事実であり、そして、中国という現状が存在している限り、その在り方が現段階で正当化されているということも客観的に見て、認めなければならない。これらこそが、現当代中国理解の基礎であると思ったからである。これらの理解(していこうとする姿勢さえ)がなければ、知中派として、友好の旗振り役として、伝道者としての任務を果たせないと感じたのである。なぜここまで極端な論を展開するのかというと、その「赤」に必ず突き当たるからだ。

「中国」という分野で目にする全てにおいて開かれている門戸の行きつく先は「赤」である。例を挙げれば、目にするテレビ、バラエティー、創作物、教科書のテキスト、ましてや街中の風景、すべての事象に、愛国教育、政治的主張、当代中国の偉業に関する側面を必ず感じることができる(はずである)。要するに思想教育である。彼らはこの思想であり、価値観であり、政治的構造という「赤」の太陽の元に照らされ、アイデンティティを醸成し、日々その光を強くしている。

天安門夜景

北京宮廷デザート富华斋

我々が「赤」を見ないというフィルターをかけると正しい色彩を捉えられない。光の三原色であるが故に代替が効かないのである。たちまち中国としての色を失う。色覚異常の方が矯正眼鏡をかけた際に景色の変容に感涙する様子はネットで見ることができる。つまりは「赤」が見えた瞬間に、中国は本来の輝きを放つのである。我々日本人(民間、庶民)は対中理解という論点の元では、本来の中国の色を認識できていない、しようとしていないので、相容れず、対日中感情の差があり、相互理解が深まらないと私は感じているのである。

赤色

某芸能人が「白は200色ある」と発言し巷で話題になったように、赤色も(赤色に限らず)200色以上あるかもしれない。中国語(外国語)の習得は中国(世界)の赤色の種類を知り、判断し、評価し、他人に伝えられる最も簡単な手段であり欠かせない。赤色という概念の中に存在する赤色を選別し、捉え、なるたけそのままの様々な「赤」を伝えていく。「赤」すら見えてなければ、この作業もできないのである。一連の色彩の例は、中国目線で日本が放つ「色彩」にも全く同じことが言える。表題に記したように国の文化は太陽であり、制御は利かず、光を放ち続ける。光を失えばつまりは滅亡を意味する。つまり、他方に制御せよと問うのは不毛であり、不可能である。我々が日々訴える日中友好は、自分から相手に求めるのではなく、自らも相手の色彩を直視し、正しく評価し、理解しようとする意気込みが必要であるということである。

日本語版毛沢東語録表紙

毛沢東バッジ

毛沢東語録日本語版と毛沢東バッジ

毛沢東語録日本語版1

 

潘家园にて感じるサイバーパンク

潘家园古玩市场