元中国代表卓球選手
李鵬さん
1955年、中国遼寧省生まれ。小学生の頃から卓球を始め、瞬く間に遼寧省のチームまで上り詰め、1971年からナショナルチームで活躍。1975年の世界卓球選手権で、中国代表として男子団体金メダルを獲得した。
私は1955年、中国・瀋陽に生まれました。当時は新中国の建設が本格化し始めた時期で、卓球は「国球」として国民の誇りと希望を担っていました。容国団や荘則棟、李富栄らが国際大会で奮闘する姿は、子どもたちに夢を与え、日本の荻村伊智朗、木村興治、松崎キミ代らの活躍も憧れの的でした。
しかし、物資が乏しかった当時、卓球をプレーできる環境はほとんどなく、私が通っていたのは小河沿いの水上ダンスホール(のちに卓球場へ改装)でした。毎日10キロを往復し、専門のコーチもいない中で、情熱と粘り強さだけを頼りに腕を磨きました。1970年、遼寧省少年組で優勝し、翌年の全国大会でも優勝を果たして、国家青年チーム入りを果たしました。
1971年、まだ国交のなかった日中間で、周恩来総理の働きかけにより、日本から前例のない規模の民間友好訪中団が来訪しました。その中には、西園寺公一氏や中島健蔵氏をはじめ、経済界やメディアの著名人、青少年卓球選手など60名以上が含まれており、私は北京・上海・長沙・広州での親善試合に参加しました。代表団とは故宮や万里の長城、韶山の毛沢東旧居も訪れ、スポーツが国境を越えて人々をつなぐ力を肌で感じました。
1972年、日中国交正常化が実現した直後には、荘則棟率いる中国代表団の一員として日本を訪問し、東京・大阪・名古屋など全国を巡回しました。とくに「ピンポン外交」の立役者である後藤鉀二氏のご遺族を訪問できたことは、私にとって特別な出来事でした。「相撲は大鵬、卓球は李鵬」と雑誌で称賛していただいたことは、今でも胸に残っています。
1975年には第33回世界卓球選手権で中国代表として男子団体優勝を果たし、選手としての栄誉を手にしました。しかし何よりも誇らしく思うのは、私自身が二度にわたる歴史的な「ピンポン外交」に直接参加し、「小さな球が大きな地球を動かす」外交の奇跡をこの目で見ることができたことです。
私は中国在住時代、日中友好協会の主催する行事に何度か参加しました。来日後も常に関心を持って協会の活動を見守ってきました。日中友好協会は、草の根レベルでの民間交流の促進に尽力されており、まさに「民がつなぐ日中友好」の最前線に立ってこられた存在です。
とりわけコロナ禍以降、世界的な分断が進む中で、(公社)日中友好協会が本年主催する日中友好交流都市中学生卓球交歓大会は、相互理解と信頼を回復する貴重な機会となるでしょう。世代や国境を超えて人と人との絆を再び築くこのような試みこそ、現代においてピンポン外交の力を改めて証明するものだと感じています。
1971年の第31回名古屋世界卓球選手権から始まったピンポン外交の歩みは、福原愛さんや石川佳純さんといった選手たちが中国で築いた友情にも受け継がれています。小さな卓球台の上で交わされるラリーが、国境を越えて信頼の輪を広げていく――そんな奇跡を、私はこれからも信じ続けたいと思います。
(井上 正順)