日中の「米」の話
新米の季節になり、令和の「米騒動」も一段落してきたようだ。留学時代に覚えた「古米」「古々米」「古々々米」という言葉を令和に聴くというのも、いささか隔世の感を覚えた。
日本語の訓読みの「米」(こめ)は、日本人の主食としての、稲の実である籾の殻を取ったものを指し、基本的には1つの意味しかない。
中国では、〝米〟は2つの意味があり、北方では粟の殻を取った〝小米〟を指す場合もあるが、多くの場合、日本語と同じ意味である。米は東洋人の主食であるが故に、昔から非常に重宝されてきた。現在では、労働の報酬として、普通お金が支払われるが、昔は米が支払われたこともあった。
「桃源郷」の話を世に語り伝えた晋の時代の詩人・陶淵明が、田園生活を求めて、役人を辞任した当時に有名な1句を残している。「不為五斗米折腰」※(五斗米のために腰を曲げない――報酬の五斗米のために為政者に諂わない)。「五斗米」は「五斗の米」という意で、「斗」は度量衡の単位で、「石」の十分の一で、「升」の10倍である。五斗米は、当時の陶淵明の報酬であった。陶淵明のこの言葉は後世の清廉潔白を目標とする人達の座右の銘になったりしている。
※出典 潜歎曰、「吾不能爲五斗米折腰、拳拳事郷里小人邪。」(唐・房玄齡等『晉書・陶潜傳』)
〝米〟は金の代名詞に
「五斗米」もさることながら、昔から度量衡の単位である〝石(dan)〟(「石」)も報酬の単位として使われた。唐の有名な詩人・白居易の詩に「吏禄三百石」というのがあり、「吏禄」は官僚の年俸のことであるが、白居易の年俸は、三百石あって、陶淵明のそれよりはずっと多かったようである。日本でも昔は「石」という度量衡の単位が使われ、「百万石」とかいう領地をもらったということもあったように、米は報酬、賞与などの代わりの物であった。
時代が変わったものの、近年、中国では金のことを口にするのが憚られることなのか、金などの言葉を使わず、〝米〟という言葉を使ったりすることがある。お金を借りる(〝借钱〟、銀行などから借りる場合は、〝贷款〟という)ことを〝借米〟と言ったり、お金を稼ぐ(〝赚钱〟)ことを〝赚米〟と言ったりする。投資のことを、俗に〝砸钱〟(〝砸〟は「叩く」、ここでは「叩きこむ」という意味)というところを、〝砸米〟と言ったり、財政からの投資というところを〝财政的米〟と言ったり、金融市場からの融資も〝米〟で言い表すことがある。要するに、お金のことを全部、〝米〟で言い表すことができる。
いうまでもなく、お金のことを〝米〟で言い表すことは、ネット上のスラングとして理解できるし、何らかの修辞的効果を狙った使い方だと考えられる。それでも、金なら金と、そのままの言葉を使う方が分かりやすく、スラングみたいな〝米〟は使わなくても良い、というのが言葉の研究を仕事としている者の本音である。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)




