「身」と「生」の意味
漢字を使う中日両言語では、使い方について時々理解しにくいことがある。「身」と「生」についてもそうだ。
ある講演を聞いた。外国語学習の大切さを説く講演だった。例えば、中国人としての自分はもし中国語しかわからない、中国語しか喋れないとしたら、人間として1つの一生しかない。でも、もしも外国語、例えば日本語を学べば、それまで1つしかなかった人生を2つ送ることができるようになるという、非常に啓発に富む話だった。しかし、その際に講演者が格言として引用したのが、「一生にして二生を経る」という言葉だった。
講演者はこの格言を引用しながら上述の理論を展開させていった。講演者は、「一生にして二生を経る」、つまり、1つの生涯を2つにして送ると、理解しているようで、聴衆もおそらくその通り理解しているかと思われる。しかし自分は最初からちょっと引っかかった。なぜかというと、パワーポイントの画面を見てみると、ここの「一生」に「いっしん」という振り仮名がついていたからだ。日本語の漢字の読み方にはあまりにもさまざまなパターンがあり、規則性から外れるものもあるが、それでも「一生」を「いっしん」と読むのは、やはり無理があると思ったのだ。早速ネットで調べたら、出典は伊能忠敬と福沢諭吉の二説に分かれているが、正しくは「一身にして二生を経る」であった。これなら、1つの「身」で2つの「生(人生)」を生きるということで、納得できた。
「身」と「生」の意味
引用者はただ「身」を「生」と間違って書いただけだろうが、でも頭のどこかで両者を混同していたのかもしれない。文字通り、「身」と「生」の意味ははっきりしている。「身」は、物理的に、生物としての人間の具体的な「からだ」を指す。「生」は、説明が難しいが、生理、精神、宗教、哲学といったカテゴリーのことで、どちらかと言えば抽象的な「いきる」ことを指す。「身」をもって「生」を体験する、そういう関係である。でも、言葉として使われる際、我々は時々両者を混同して使うことがある。
例えば、中国語では「終身」と「終生」という単語の使い方に迷う人が少なくない。この両者はどちらも人の一生を表すもので、「終身」が婚姻問題という特別な意味を持つ場合を除き、〝终身奋斗〟〝终生奋斗〟というように、基本的に同じ使われ方をする。
日本語では、「身」と「生」は、訓読みにしても音読みにしても、意味的に割とはっきりしているので、多くの場合、混同されることなく使われる。それでも、「終身」と「終生」に関しては、慣用的な組み合わせがある。例えば、「終身雇用」は「終生雇用」とは言わないし、「終生免疫」は「終身免疫」とは言わない。
言葉の使い方には醍醐味があるものである。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)