出会いと縁の話
若い人で結婚しない人が多くなっていて、社会問題となっている。今回は、日中両言語における出会いに関する言葉の話をしてみたいと思う。
日本語では、「出会い」という言葉があれば、「巡り合い」という言い方もある。前者は基本的には、二人が顔を合わせるという意味で、異性同士が知り合う、という意味でも使われる。後者は、多くの場合、長い間会わなかった者同士が思いがけず会うことを表すが、その他にも、会う定めになっていた者同士が初めて会う場合にも用いられる。それから、「巡り合い」にはまた、何か良いきっかけがあったり、良い結果が生まれたりしそう、というニュアンスを含んだ意味合いがある。その良いきっかけというのは、ほかの言葉で言い換えるとすれば、縁ということになるだろう。
袖触り合うも他生の縁
日本語の「出会い」にあたる中国語は、話し言葉的にはあまりぴったりした言葉はないが、書き言葉的に言えば、〝相遇〟〝相逢〟ということになる。「巡り合い」に関しては、日中辞書では取り扱われていないようだが、「巡り合う」という動詞に関しては、〝相逢〟〝邂逅〟という訳語をあてる辞書がある。中国語の〝邂逅〟は、日本語にも同じ漢字の語があるが、書き言葉であって、〝邂逅相逢〟と、四字熟語として使う場合が多い。〝相遇〟〝相逢〟はあくまでもただの出会いであって、筆者は「幸いに」という意味を含む〝幸遇〟、〝幸会〟という語を使いたい。
でも巡り合いに関して言えば、中国語には、〝有缘千里来相会〟という諺がある。つまり、縁があれば、千里離れていても、会いに来ることがあるということである。もし縁がなければ、逆に〝无缘对面不相识〟(「縁がなければ対面していても知り合いにならない」)と言われるようなことになる。では、その縁はいかにして手に入れられるのだろうか?中国語にはぴったりした言い方はないようである。
それに対して、日本語には「袖触り合うも他生の縁」という諺があり、さらに、「縁は異なもの味なもの」(略して「縁は異なもの」)という慣用句がある。縁さえあれば、いつでもどこでも巡り会えるという意味である。男女はどこで、どういうきっかけで出会い、巡り会うかは誰も予想ができない。縁とは、そういう不思議なものなのである。
「袖触り合うも他生の縁」の中国語訳には、〝相会皆有缘〟があてられているが、あくまでも訳語であり、「縁は異なもの」についてはそれに対応する中国語的な言い方はない。上記の〝有缘千里来相会〟と似た意味の、〝千里姻缘一线牵〟「千里の姻縁、1本の糸で結ばれる」(「姻縁があれば夫婦になる。合縁奇縁『中日大辞典』」)を訳語とする辞書があるくらいだ。
「無理矢理に引き合わせてもいい結果にならない」ということの譬えとして、〝强扭的瓜不甜〟(無理に熟していない瓜をとっても瓜は甘くない)という中国の諺がある。縁は恵まれるものである。
(しょく・さんぎ 東洋大学元教授)