精神力と風格で、「負けたけど一番」

2021年8月1日号 /

 

卓球元世界チャンピオン

公益財団法人日本卓球協会顧問

松﨑 キミ代さん

1938年、香川県三豊郡高瀬町(現三豊市)出身。元卓球選手。過去に出場した世界卓球選手権において通算 7 個の金メダルを獲得するなど、数々の世界タイトルを制覇。1997年、世界卓球殿堂入りを果たす。2020年、東京都渋谷区名誉区民顕彰。現在、公益財団法人日本卓球協会顧問、東京都渋谷区日中友好協会副会長。

 

まるでいい芝居を見ているよう! 小学5年生の放課後、講堂で村の青年たちが卓球をしているのを見て、その球の音、軌跡の美しさに、たちまち夢中になった。

中学で迷わず卓球部に入ると、酒屋を営む両親は大反対。6人姉妹の長女で、店の手伝いもあった。「そんなに卓球が好きなら帰ってこんでよろしい」などと言われ、十分な練習ができず、一度は部活をやめようと思った。

ところが中2のとき、学校統合で赴任してきた先生が、前年、郡の学校対抗ソフトボール大会でサードへの打球を見事にさばいていた姿を覚えており、すぐ家に来て両親を説得してくれた。

「うれしかったですね。これで怒られずに卓球ができると思うと。卓球が大好きでしたから」

中学3年で香川県1位。高校3年のインターハイで2位。当然のように卓球の強豪・専修大学への進学を希望したが、当時女子の大学進学率(※)は非常に低く、「跡取り娘が大学へ行く必要はない」と両親はまたもや大反対。これは態度で示すしかないと、毎朝、自宅近くの山(高瀬富士・約250㍍)に登ることにした。「もうお前には負けた。専修大学へ行け」と父親が折れたのは、出願締切の直前だった。

※1956年の女子大学進学率は2.3%(出典:「文部科学統計要覧」令和2年版)

周総理が称えた風格

大学に入ると、もっと強い人がいると思い知った。だが、生半可な気持ちで故郷に戻るわけにはいかない。崖っぷちの精神力で練習を重ね、1年で全日本学生選手権優勝。2年の全日本選手権で優勝すると、第25回世界選手権代表に選ばれ優勝した。

そして1961年、第26回世界選手権代表として、戦争の影が色濃く残る中国・北京へ。観客は中国選手だけを熱狂的に応援、その歓声は「金属的な音でした。壁が落ちてくるんじゃないかというくらい」。体力も限界だったが、「私はいつも笑顔で。会場の中でも外でも」。準決勝で負けた瞬間、相手選手に駆け寄り握手を求めた。

「相手への尊敬ですね。高校1年のとき、富田芳雄選手らの立派なマナーを見て、あんなふうになりたいと心がけてはいましたが、ぎりぎりのときほど、人の本質は出ますね」

大会後の送別会で、周恩来総理に名指しで絶賛されたのはあまりにも有名だ。

「『あなたは負けたけど一番です。ほほ笑みを絶やさず、勝ってもおごらず、負けてもくじけない。その〝風格〟を、中国の全スポーツマンは学ばなければならない』と言ってくださいました」

中国の選手たちとも親しくなった。葉佩琼さんとは今でも連絡をとりあい、会うと思い出話に花が咲く。

よいマナーは気持ちがいい

1971年のピンポン外交、1972年の日中国交正常化と、卓球が世界をつないでいくさまを「名誉なことと思っていました。卓球が世界で注目されて」と笑う。

いま、選手の環境は大きく改善し、用具も発達した。それでもやはり、「ラリーは楽しく、よいマナーは気持ちがいい」点は変わらない。優秀な選手が次々と現れるようになった日本の卓球界を、朗らかに見つめている。

(本紙 田中麻衣子)