みんな、間違いなく日本を好きになる

2021年6月1日号 /

 

ライター・カメラマン 

趙 海成さん

1955年、中国・北京出身。82年、北京対外貿易学院(現・対外経済貿易大学)卒業。北京税関勤務後、85年、日本大学芸術学部に留学。88年、日本初の在日留学生向けの中国語新聞『留学生新聞』初代編集長。99年、大富(CCTV)広報部長。2000年、日中合作ドキュメンタリー『シルクロード』制作に参加。2002年に帰国後、日中を行き来しながらフリーのライター・カメラマンとして活躍。近著に、『私たちはこうしてゼロから挑戦した―在日中国人14 人の成功物語』(アルファベータブックス)。

 

小学校6年生のある日、先生が教室に2人の日本人の子どもを連れてきた。次第に仲良くなり、家に遊びに行くと、おもちゃにカメラ、電気製品、人形……。何もかもがめずらしく、日本に興味を持つようになった。

隣家に遊びにくる日本人に日本語を教えてもらったり、ラジオを聞いたりして日本語を学び、大学でも日本語を勉強。卒業後は北京の税関に勤務し、故・胡耀邦総書記が招いた日本人青年3000人を空港入国現場の職員として迎えたこともある。それでも、「もっと日本を知りたい」と、日本への留学を決めた。「一度かごから飛び出したら、大空へ飛び立つ」と、自分を鳥にたとえる。

やがて、小学校で出会った日本人のひとりから翻訳会社を紹介され、リースでFAXを買い、4畳半のアパートで翻訳の仕事を始めた。ちょうどその頃、日本に来る中国人留学生が増え、彼らのための新聞を作る話がもちかけられる。「やりましょうと。留学生たちがもっとスムーズに勉強や生活ができるよう、正しい情報を提供するために」日本初の中国人留学生向け中国語新聞『留学生新聞』を創刊。初代編集長として10年間、最大で月に約5万部を発行した。

〝感受日本〟を目撃

2002年に帰国後は、日本と中国を行き来しながらライター・カメラマンとして活動。そのなかで年に2回、中国日本商会・日中経済協会・中日友好協会による中国人大学生の日本訪問事業「走近日企・感受日本」の随行記者を務めてきた。当初は中国での反日感情が高まった時期があったが、「みんな、間違いなくこの訪問によって日本を好きになります。日本人の優しさを感じて。中国にいては〝感受〟できなかったと」。1泊のホームステイ終了後は泣きながら別れ、帰国してからもホストファミリーとの交流を続ける人が多いという。のちに日本に留学する人や、日本企業に就職する人も少なくないそうだ。

まず、知ってほしい

日本と中国で働いてきて感じるのは、日本人と中国人が「お互いを理解するのは難しい。同じアジアの国と言っても相違点がたくさんある」ということ。ただし、日本人には「中国が嫌いと言っても構わない。でもまず、中国を知ってほしい」と願う。「知るには、まわりにいる中国人を知ること。知れば、心が通じ合う。そうすると、理解しやすくもなる」。それが、両国の人々を丁寧に取材してきた達人が勧める、日中交流の心得だ。

先月、在日中国人を日本人に紹介する書籍を上梓した。来日して〝ゼロ〟から出発した14人の、ありのままの成功物語だ。彼らには、コロナの影響を受けても工夫を重ねて努力するたくましさがある。そんな在日中国人の生きざまを「本を通して日本人に知ってもらいたい」と、コロナの感染拡大後にはオンラインで追加取材も敢行した。

これからも「日本を中国に紹介したり、中国を日本に紹介したり、架け橋みたいなことを趣味のように続けるかも」と、気負いなく話す。反響を楽しみにしている新刊書籍の装丁には、大空をイメージした青地に鳥の絵があしらわれていた。

(本紙 田中麻衣子)