名著『中国55の少数民族を訪ねて』が文庫版で復刊(前編)

広大な中国には、圧倒的多数を占める漢民族のほか55もの少数民族が存在する。しかし、日本人が断片的にでもイメージできるのは、ごく一部といえるだろう。

1992年から5年間、11回にわたって中国の辺境を歩き、55すべての少数民族を綿密に取材し、知られざる伝統芸能を記録に収めたのがビデオ作品「天地楽舞 中国五十五少数民族民間伝統芸能大系」(全40巻、日本ビクター)だ。発売時は大きな話題を呼び、美しい映像のみならず、資料的な価値も高く評価された。

その撮影時のエピソードをまとめた『中国55の少数民族を訪ねて』(白水社)は1998年に上梓(2010年に同社から新装版)されたが、今年2月、KADOKAWAより文庫版としてよみがえった。名著が復活したいま、改めてどんな思いを抱いているのか――著者のひとり(故・市川捷護氏との共著)で、現在は公益財団法人日本伝統文化振興財団理事長を務める市橋雄二氏に話を伺った。

市橋いちはし 雄二ゆうじ

1962年、三重県出身。東京外国語大学卒業後、日本ビクターに入社。
ビデオソフト事業部でプロデューサーを務め、多くの作品を手掛けた。
2021年から公益財団法人日本伝統文化振興財団の理事長を務めている。

市川氏は人生の師

この壮大な映像作品を手掛けることになったのは、日本ビクターから発売された「世界民族音楽大系」が好評を博し、その流れで「日本古典芸能大系」などシリーズ化されたためで、当時、コンビを組んでいたのが、1941年生まれで21歳上の市川捷護氏だった。その市川氏は、2024年に亡くなっている。

「人生の師といえる存在。朴訥で多くを語るような方ではありませんでしたが、『物事には両面あるので、一歩引いて、相対的にみることが大事』という言葉が心に響きました。

少数民族の村に入るときの作法は難しく、対応を誤ると取材不可になってしまうのですが、大きなトラブルもなくうまくいったのは、小沢昭一さんの『日本の放浪芸』シリーズなど、市川さんの豊富なドキュメント取材の経験があったからこそ。私ひとりでは、こんな企画はできませんでした」

市川氏(左)と市橋氏

チベットで高山病に

1992年の予備調査に始まり、5年間で11回に及んだ日中共同プロジェクトの撮影は、「取材」というより「冒険」と呼ぶほうがふさわしい。辺境の少数民族を訪ねる行程は、あまりにも過酷だった。著書には手に汗握る場面が何度も登場する。

チベット自治区では、スタッフが重篤な高山病にかかり、一時は昏睡状態に陥る事態に。

「私自身はアスピリンを処方され、取材を続けることができました。ただ、症状がひどくなると、高度を下げる以外にないのです。そのときは北京にある軍の高山病専門の治療施設を手配してもらえたのですが、そのスタッフは現場に復帰できず、帰国を余儀なくされました」

筆者もかつて高山病を経験し、三日三晩、幻覚と幻聴に襲われた経験があるので、その苦しさはわかる。しかし、市橋氏が「本当に命の危険を感じました」と振り返るのは、プミ族が暮らす雲南省河西郷でのこと。最も僻地に住む少数民族のひとつであり、絶壁を抉って平らにした、渓谷沿いの頼りない一本道を進んでいく。

命の危険感じた脱出

ちょうど雨季に当たり、雨で地盤も緩んでいる。一本道のどん詰まりにある河西郷に着くまでに、崖から崩れ落ちた岩を取り除くなど何度も立ち往生して、約十一時間を要することとなった
翌朝、河西郷から先はダンプカーを借りて食料、荷物を積み、隙間にスタッフが乗って行ける所まで行き、さらに沢伝いに山のけもの道を徒歩で約四十分、ようやく玉石場村に着いた

往路だけでも難行苦行ぶりが伝わってくるが、問題は復路だった。雨が続くなか、村で調達した20頭の馬に機材などを積み、約6時間かけて、どうにか河西郷に戻ったものの、そこで足止めを食ってしまう。50年ぶりという記録的な豪雨により、一本しかない道は、土砂崩れと陥没で何ヵ所も寸断されているとの情報が。そのうえ、河西郷も停電、断水となり、下界との連絡が途絶され、孤立状態になってしまったのだ。

「詳しい被害状況を把握できず、行ってみなければわからない、という状況でした。大勢のスタッフがずっと留まることは無理ですから、どうやって脱出するか。中国人スタッフとも協議した結果、肚を決めて、車を置いて徒歩で下山しようと決断しました。

荷物の中には80kgくらいある発電機もありましたから、山道に慣れた地元の強力(ごうりき)を雇い、天秤棒で担いでもらって。食料を増やすと、そのぶん余計に頭数も必要になりますから、最低限の茹でトウモロコシだけです。途中、土砂崩れに遭遇したら一巻の終わり。はたして平地まで辿りつけるのか、不安でいっぱいでした」

スタッフ10人と村人70人の大キャラバン隊となった。誰かひとりでも犠牲者が出れば、プロジェクトは中止になりかねない。プロデューサーの立場でチームを引率する市橋氏の心労は、察して余りある。被害の甚大さは、想像を遥かに超えるものだった。

土砂が崩れ落ちて小山になっている所は登って越え、道路が陥没している所は、いったん山側に迂回して斜面を登って進んで再び道路に出たり、浅めの陥没箇所はそのまま下って登って、というようなことの繰り返し。寸断箇所は優に百を超えていた

まさに決死行である。悪路を約13時間、麓の大きな街である通甸に到着。夜、ホテルで旅装を解き、ようやく無事を実感できたという。

オロス族の人たちと撮影スタッフ(1995年7月)

歓迎の酒には苦労も

著書には、各地で出合った料理や酒に関する記述も多く、「旅物語」としての味わいもある。ただ、同じ体験をしたくても、読者にとっては、実際に行けないような場所ばかりなのだが。

最近は昔ほどではないようだが、酒を酌み交わすのは、中国人とコミュニケーションをはかるうえで欠かせない「儀式」。筆者も1990年代に湖南省で生活していた頃、熱烈な乾杯攻撃の洗礼を受け、何度も記憶をなくした苦い思い出がある。

市橋氏らの取材チームも、行く先々で「歓迎」される機会が少なくなかった。

「事前に訪問しますとの連絡はしてあるので、村の入口で宴席を設けて待っていてくれるのです。特に西南エリアでは、そういったケースが多かったですね。たぶん密造だと思うのですが(笑)、度数が強いお酒を勧められて、飲まなければ失礼になるし、飲んでしまうと、酔ってしまって仕事にならず、さてどう切り抜けるかと。そのうち、カメラマンなどは撮影があるので遠慮しますと伝え、私のような撮影に支障がない立場の人間がお付き合いすることにしました。歓迎に応えつつ、ちゃんと仕事もこなすという匙加減が大切なのです。当時はまだ、『まずは1杯』といった文化が色濃く残っていましたね」

こうして村の長老をはじめ、現地の人と良好な関係を築かなければ、協力や便宜を得られず、いい絵は撮れない。55民族を網羅するという困難なミッションを達成できた背景には、異文化コミュニケーションに長けた市橋氏と市川氏の人間性があったように思う。

一口に少数民族といっても、外国人に対するスタンスや気質はさまざまであり、おふたりが積み重ねてきたキャリアが、臨機応変の対応につながったといえるだろう。

(内海達志)