『封神演義』において紂王を蠱惑し商王朝を内から崩壊させるため、多くの妖孽を起こしたのが妲己（だっき）である。姜子牙と対をなすもう一人の主人公とも言えようか。
物語での妲己は、冀州侯・蘇護の娘である。紂王に嫁ぐため朝歌を目指す道中、恩州の官舎で一晩過ごす。この官舎は三年前に妖怪が出て、今では利用する者は誰もいない。しかし、蘇護は天子の妃となる大切な娘に野営させることはできぬと、恩州の駅丞（官用宿場の責任者）が制止するのも聞かず、無理に官舎に泊まる。そして夜中に妖怪が現れ騒ぎとなるが、被害は何もなかった。しかし、この時すでに妲己は狐狸精に乗り移られていたのである。
史実では、有蘇（ゆうそ）の娘とされる。『国語』では、帝辛（紂王）が有蘇氏を討った際に有蘇氏が献上したのが妲己である。この名前を見て違和感を覚える方もおられるであろうが、蘇護は物語の名であり、史実では姓は己、名は有蘇であり、その娘は姓が己、字（あざな）は妲、つまり己妲が名である。だが、この時代の女性は字を先、姓を後にする風習があったため妲己となる。後世になると妲己を字と見なすようになるが、これは誤りである。また『史記』「殷本紀」での妲己は、紂王に寵愛され甘言を弄し、民に重税を課し財貨を蓄え、残虐な処刑法や酒池肉林などを作り、享楽に耽ったと記される。現代でも妲己は悪女であると共に魅惑的な女性の代名詞ともされる。
物語では、不敬をはたらいた紂王に女媧娘娘は怒り、妲己･王貴人･胡喜媚の三匹の妖怪に商を内から崩壊させるよう命じる。つまり妲己の数々の残虐な行為は、女媧の命を忠実に果した結果なのである。ちなみに妲己は九尾狐狸精（きゅうびこりせい）、王貴人は玉石琵琶精（ぎょくせきびわせい）、胡喜媚は九頭雉鶏精（きゅうとうちけいせい）が正体の妖怪である。
三妖は甘言で紂王をたぶらかし、直接戦場に立つことはほぼない。だが、物語の終盤、周軍が朝歌に攻め入った際、三匹は甲冑を身にまとい、各おの武器を取り、桃花馬を駆り周軍営に夜襲をしかける。だが、哪吒や楊戩など周軍の仙道が立ちはだかり夜襲は失敗する。これを機に商の命運は尽き、みずからの役目を果し、また、周軍の追手から逃れるために三妖は朝歌を脱することを決意する。朝歌を離れ空中に脱すると、はたして楊戩たち追手が迫ってくる。追撃を交わしつつ逃げていると、行く手を女媧娘娘が立ち塞ぐ。三匹は女媧に助けを求めるが、女媧は三妖の行為は天数から外れた残虐なものであり救いようがないと言い、縛妖索（ばくようさく）で捕え、楊戩たちに引き渡す。そして周軍に連れられ、姜子牙によって斬首される。
妲己の数々の残虐な行為は、あたえられた命を忠実に遂行したに過ぎない。しかし最後に、その忠義の行為すら天数に沿わぬと言われ、切り捨てられてしまう。『封神演義』では、天数によって全ての出来事は定められているとされるが、妲己であってもそこから脱することはできなかったのである。
文◎二ノ宮 聡
1982年生まれ。中国文学研究者。中国の民間信仰研究。関西大学大学院文学研究科中国文学専修博士課程後期課程修了。博士（文学）。北陸大学講師。
絵◎洪 昭侯
1967年、中国北京生まれ。東京学芸大学教育学部絵画課程卒業。（株）中文産業のデザイナーを経て、2014年、東方文化国際合同会社設立。