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協会の見解

中国人強制連行事件・劉連仁訴訟に関する要請書


要 請 書

 中国人強制連行事件・劉連仁訴訟については、本日の東京高裁判決を厳粛に受け止め、原告遺族の要求にもとづいて、早期の政治的解決に向けた速やかな決断を要請します。

 この訴訟は、2001年7月東京地方裁判所において、原告の賠償請求全額を認める判決が出されましたが、被告の国側が控訴したために3年にわたる控訴審を経て、去る2004年10月に結審し、本日、東京高等裁判所の判決が言い渡されました。
 この判決は、劉連仁氏の戦時中の強制連行強制労働の事実と戦後13年間におよぶ逃亡生活の過酷な実態を認め、これをもたらした当時の日本国の責任を指摘しています。
 この事件は提訴以来すでに9年が経過しています。すでに被害者原告劉連仁氏は一審判決を見ることなく他界し、訴訟を継承した妻趙玉蘭さんも高齢で病弱であることに鑑みれば、政府は人道的立場から早期の解決を図るべきであると考えます。
 劉連仁訴訟は、戦前の不法行為に加えて戦後の政府の責任が厳しく問われた事件です。
 劉連仁氏は、1958年に発見された当時から日本政府に対して謝罪と賠償を要求してきました。政府は国会答弁において、「当時の事情を明らかにする資料がない」として、外務省作成の「華人労務者就労事情報告書」の存在すら隠蔽し、強制連行の事実を認めることを拒否してきました。しかし、その一方で、当時の岸内閣は官房長官名による10万円の金一封(劉連仁氏は受取拒否)を添えた書状で、劉連仁氏に早期の帰国を促し、解決を先送りしました。政府の姿勢は甚だ矛盾したものであり、誠意に欠けたものとみなさざるを得ません。
 その後、戦後50年にあたる1995年8月に、劉連仁氏は当時の村山首相へこれらの経過を踏まえて解決を求める「直訴状」を提出しましたが、その回答はなく今日に至っています。
 これらの経過から見ても、政府はこの訴訟の早期解決を行なう政治的・道義的責任があると考えます。
 現在の「政冷経熱」といわれる日中関係は憂慮すべきものがありますが、日本と中国の国交正常化から33年を経て戦後60年を迎える今年、劉連仁事件の政治的な解決を図ることは、冷え込んだ日中両国関係の改善に向けた日本政府の強いメッセージにもなるものと思料いたします。
 政府が、謝罪と賠償を求める劉連仁氏の遺族の要求を受け入れて、早期解決のための和解交渉に速やかに踏み切られんことをここに要請いたします。

   2005年6月23日

社団法人日本中国友好協会

法務大臣 南野知惠子 殿

外務省中国課長
泉 裕泰 殿

 当協会は、本日の第21回通常理事会と第11回通常総会において、以下のことを決めましたので、お知らせいたします。なお、二つの要望書(要請書)の写しをお送りいたします。

  1. 靖国神社への参拝の中止を小泉首相に要請する。(別紙の要望書は本日、内閣総理大臣に送付した)
  2. 中国人強制連行事件・劉連仁訴訟については、本日の東京高裁判決を厳粛に受け止め、原告遺族の要求にもとづいて、早期の政治的解決を決断することを国に対して要請する。(別紙の要請書は本日、内閣総理大臣と法務大臣に送付した)
  3. 現在の冷え込んだ日中両国関係の状況下で、さまざまな分野で日中民間交流を積極的に進めることが重要との認識に立ち、以下の二つの事業をはじめとして、中央・地方における交流を一段と積極的に進める。
    (1) 7月20日から9月11日まで東京国立博物館において西安で発見された遣唐留学生・井真成の墓誌を中心とする特別展「遣唐使と唐の美術」を開催する。(巡回展を9月20日から10月10日まで、奈良国立博物館で開催)
    (2) 9月6日に南京で、戦後60年を記念して「南京城壁修復協力事業」開始10周年の記念行事を行う。同事業は戦後50年にあたる1995年に、当協会の平山郁夫会長の呼びかけで1998年まで3年間にわたって行われ、日本から延べ2万人が南京を訪れて修復作業に参加した。

    以上
     
    社団法人日中友好協会
    事務局長 酒井 誠

【資料】

中国人強制連行事件・劉連仁訴訟について

 アジア太平洋戦争中、国内の労働力不足を補うために、日本政府は企業からの強い要請を受け入れて、3万8935人の中国人を日本全国135の事業場に強制連行しました。苛酷な労働条件と劣悪な食事だけで働かせた結果、6830人が亡くなりました。
 劉連仁さんは1944年、中国・山東省の自宅前で突然に拉致され、北海道の明治鉱業の昭和鉱業所に連行され、石炭掘りや運搬作業をさせられました。身を切るような寒さの中で、劣悪な労働条件と粗末な食事で重労働を課せられました。ノルマが終わらなければシャベルやつるはしで殴られ、石炭屑が傷口に入って血が流れ、肉が赤く染まりました。劉連仁さんの仲間も次々に殺されたのと同然に死んでいきました。
 1945年7月、劉連仁さんは逃亡を決行し、日本の敗戦も知らずに13年間も北海道の山中に隠れていました。1958年、地元の人に発見されましたが、日本政府は強制連行の事実を認めず、一片の反省・謝罪も表さなかったため、劉連仁さんは日本政府に対する抗議声明を突きつけて、中国に帰国しました。
 劉連仁さんは1996年3月、謝罪と賠償を求めて、日本国を相手に裁判を起こしました。そして、2000年9月2日、胃癌のため帰らぬ人となりました。87歳でした。劉連仁さんは遺言で、「裁判を勝利させてほしい。たとえ負けたとしても、この裁判は子から孫へかならず引き継いで闘って、全世界の人たちに伝えてほしい。今までお世話になった弁護団、日中友好協会をはじめたくさんの友人たちによろしく伝えてほしい」。そうつぶやいて息をひきとったそうです。
 裁判は子息の劉煥新さんら遺族が引き継いで、2001年7月、一審の東京地方裁判所で勝訴しましたが、国が控訴し、二審の東京高等裁判所で審理が進められてきました。


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