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活動の紹介

経験交流し大きな成果
陳焜旺さん 東京華僑総会名誉会長
 日中友好協会は1949年10月10日、新中国の成立を祝う慶祝大会で設立準備会を発足させ、1年の準備を経て50年10月1日に正式に創立された。準備会の事務局は留日華僑総会の本部に置かれ、準備委員・発起人には多くの華僑が名前を連ねるなど、初期の日中友好運動は日本人と在日華僑が協力しながら進めていた。日中友好協会がどのような経緯で設立されたのか、日本人と在日華僑の協力関係を中心に、当時の様子を知る東京華僑総会の陳焜旺名誉会長に話をうかがった。

 一身同心の協会と華僑

陳焜旺さん 1923年台湾省台中県生まれ。41年に来日、中央大学法学部卒。東京華僑総会名誉 東京華僑総会名誉会長、日本華僑華人聯合総会名誉会長、国立華僑大学名誉博士。
陳焜旺さん。
1923年台湾省台中県生まれ 41年に来日、
中央大学法学部卒。
東京華僑総会名誉会長、日本華僑華人聯合総会名誉会長、国立華僑大学名誉博士。

協会創立前の状況を教えてください
 内山完造(協会初代理事長)、赤津益造(同初代常任理事)、島田政雄(同初代理事)、中西功(参院議員)らが中国から帰国し、46年御茶ノ水に中国研究所ができました。前身は東亜研究所で、所長は平野義太郎(協会初代副会長)です。中国問題の専門家らが集まり啓蒙運動をやっており、周辺の大学の学生が入れかわり立ちかわり講義を聞きに来ていました。
 赤津さん、島田さん、中西さんは「上海組」です。上海の疎開に集まり、魯迅、郭沫若らと交流がありました。岡崎嘉平太(上海華興商業銀行理事)が国民党の副司令官と仲が良く、上海にいた日本人は一番早く帰国できました。
 上海組が協会の歴史的ルーツの一つです。

中国から帰国した人など日中友好の志を持った人たちが集まり協会創立の準備が進んでいったのですね
 46年春に留日華僑総会ができ、本部は(東京・丸の内の)丸ビルにありました。4階は「満州電電」が入っていて、そこを華僑が接収したのです。華僑総会の代表と日本人が世話人として会議室を事務局に使っていました。主に島田、加島敏雄(初代事務局主任)夫婦が来ていました。資格は関係ない、我と思う人は来てくださいという感じでした。当時は食べるのに困っていたから集まるのはバラバラ。後で誰それが来てこう言っていたと連絡します。会議では華僑も日本人も区別しません。内部では政党間の主導権争いがありましたが、華僑が心棒でクッションの役割を果たしました。

準備会の発足式は中華人民共和国成立慶祝大会と同時でした
 (中華人民共和国が成立した)49年10月1日は、2000人が入るような会場が確保できず間に合いません。そこで10月10日に辛亥革命を記念して毎年開いている双十節慶祝大会(千代田区・共立講堂)を、緊急動議で中華人民共和国成立慶祝大会に切りかえたのです。第2部で議長団を選出し、協会設立準備会を発足させました。

華僑と協会は密接な関係だったのですね
 華僑の多くが協会の理事で、協会成立後は中国留日学生同学総会(神田・東方学会)の一室を協会に提供していました。
 しかし、53年に訪中した際、私が協会などの役員になっていることを廖承志氏(当時、中共中央委員・政務員華僑事務委員会委員)に伝えると、勉強不足だと怒られました。他国の政治や団体に干渉しないという原則が共産党内で決まっていたのです。「帰ったら君の責任で皆を辞めさせるように」と言われました。私は松本治一郎初代会長に会い、内山さんや宮崎世民(初代常任理事)ら幹部にも個別に話し、「肩書きははずして欲しい」と伝えました。でも実際は「一味同心」で行動していました。
 訪日団が来た時には右翼や国民党が妨害するので、華僑と協会が中心となって警備しました。いろいろな友好団体がありますが、成立の時から日常的に行動を共にしたのは協会だけです。協会の収入はほとんどが物産展からで、華僑の貿易会社から品物を安く譲ってもらうわけです。そういう実質的な協力関係がありました。言葉で説明しても、今の人はよくわからないかも知れません。
 世代がかわり今は関係が希薄になっています。当時、私は26歳の若造で、内山さん、宮崎さんに比べれば子供みたいでしたが、華僑代表ということで大事にしてくれました。互いにずけずけ言うので年齢に関係なく本当に親しくなれました。

50年11月1日に花岡事件の殉難者追悼会を浅草の東本願寺で開くなど、協会創立と平行して慰霊事業が始まっています
 遺骨が野さらしになっていることがわかって掘り始めたのが49年で、夏休みに学生を動員しました。遺骨は棗寺(東京・浅草)が預かってくれ、華僑と協会が中心となって総評などと53年2月に「俘虜殉難者慰霊実行委員会」を立ち上げました。棗寺は浄土真宗大谷派なので、大谷瑩潤(東本願寺連枝筆頭・参院議員)に委員長になってもらいました。
 中国に対する好き嫌いは別として、人道上の問題だからと各界の人々が参加してくれました。53年から遺骨も送還でき、58年まで続きました。
 これがとても大きな作用を果たし、一般の人たちの協会に対する認識を深め、中国との交流を生むことにつながっていったのです。
最後に最近の友好運動に対する感想をお聞かせください
 以前は「核」があったけど、今は中心がないようです。日中友好団体の関係も形式的になりました。前は責任者が集まって何人動員しようなどと決めていました。だから互いの事情もよく知っていました。今は電話一本だけです。交流ということでは昔の「青年運動」が欠けています。青年の参加を促していく必要があります。

協会創立前後の動き

1946年
1月20日 中国研究所設立(所長・平野義太郎)
  4月21日 「留日華僑総会」結成(熱海)
49年 10月1日 中華人民共和国成立
  10月10日 協会準備会発足(神田・共立講堂)
50年 1月12日 協会発起人総会(参議院議員会館第一会議室)を開き各界から
200人が参加。会の正式名称を「日本中国友好協会」に決定
  2月20日 機関紙「日本と中国」創刊
  3月20日 「日本中国友好週間」(〜27日)で「新中国街頭写真展」(銀座)を開く
  7月13日 「日中友好会議」(参議院議員会館)
  10月1日 協会創立大会(一ツ橋・教育会館)
  11月1日 花岡殉難者追悼会(浅草・東本願寺)
  11月15日 協会弾圧の「人民日報配布事件」
52年 6月1日 第1次日中民間貿易協定調印
53年 2月17日 「俘虜殉難者慰霊実行委員会」結成
  3月23日 在華邦人帰国第1便舞鶴港入港
  7月1日 中国殉難者遺骨送還船「黒潮丸」出港
55年 11月17日 中国商品展覧会(東京・晴海)

創立大会は2日間にわたって開かれ(9月30日・10月1日)、華僑、政党代表を含む各界各層約1000人が集まった。写真は一ツ橋の教育会館(1日)
「殉難者遺骨奉送団」。遺骨返還などの慰霊事業は協会と華僑が協力して行った
創立大会は2日間にわたって開かれ(9月30日・10月1日)、華僑、政党代表を含む各界各層約1000人が集まった。写真は一ツ橋の教育会館(1日) 「殉難者遺骨奉送団」。
遺骨返還などの慰霊事業は協会と華僑が協力して行った
(「日本と中国」2008年1月1日号掲載)



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